「基本」・・・考 其の3

 さて、其の3になりますが、そろそろ何を書けばいいのかわからなくなってきました。

 これまで書いたことは武術、武道を長くしておいでの方には自明のことではないかと思います。ですから、基本、について書いたのは稽古をこれから始められる方、始められたばかりの方々に最初にする稽古の意味をわかっていただけたらと思ったからです。

 最初に学び、稽古をする。その受け止め方次第でその流儀への最初の一歩が正しく踏み出せるか否かが決まってきます。

 新陰流の十通りの太刀筋は、基本といえば基本ですが決して容易なものではありません。流儀が要求する太刀筋は日常の動作とは隔絶した、それまでに触れたことのない運動体系を構成するものですから、理解できないのも当然と言えば当然のことです。それを無理に理解しようとすれば、言い換えれば日常の動作で行おうとすればその時点で流儀から離れてしまいます。(そのような時は指導者は当然それを指摘するでしょうが。)

 前田師と甲野善紀氏の著書「剣の思想」第11章「太刀を遡るもの」より引用します。

 「「太刀筋」という体系は分析して考えるものではない、彼我の間を律する潜在的制度として体得するものです。この体得に、あらゆる方向からの思考が動員される。ですから、私が何とかやり続けている稽古もおっしゃるほど安定した保証を持っているわけではありません。暗中模索の遡行がその本質なのです。

 しかし、こういうことなら言えるでしょう。暗中模索ながらもこの遡行が可能となるのは、基本と極意が完全に一致するような体系のおかげであると。私が稽古するものにおいても基本中の基本は、極意中の極意となります。それは、前にお話ししたあの「小転」の動きにほかなりません。」(中略)「実際、それはそうなのであってここには冗談も誇張もはったりもありません。上泉の新陰流はここに始まりここに終わる体系になっている。あらゆる太刀筋はここから展開し、ここに収束する。ですから「小転」の稽古は生涯のあらゆる段階で続けていくべきものとなるのです。この単純極まる動作がどこまで、どのようにして深くなっていくかは、各人が年月をかけて経験してみるほかはない。この動きが太刀筋、間積もり、拍子を作り出すやり方は本当に深くなっていきます。この場合、深くなるというのは言うまでもなくそれが日常動作の本性から遠ざかる(中略)という意味でしょう。こうした距離はむろん質であって量ではない。深まるものはまさにその質以外にないなのなら、最初にその質が植え付けられていない限り、上達の過程は始まりようがありません。故に、基本と極意とは、まったく同質のものでなくてはならないのです。」(中略)「基本と極意とが同質のものであることは当然ですが、しかしながら、基本の単純さと極意の単純さとは、同じ性質のものではないでしょう。人はしばしばこの逆を考えてしまうようです。だから極意は基本に帰ることだと言ったりする。けれど、基本からもっとも遠ざかったものが極意でなかったら、稽古などは馬鹿馬鹿しいものです。」(後略)

 引用した記載のうち中略した部分にも重要なことが書かれていますが、ここでは割愛します。興味がある方は「剣の思想」をご覧ください。


 突き詰めて考えると、今回の「基本」考其の1から其の3で、私が伝えたいことは「剣の思想」のこの部分にすべて詳述してあります。ですから本当は「剣の思想」を紹介すればそれでよかったのでしょうが、

敢えて拙文にて述べさせていただきました。

 ひとまず、「基本」考はここでお終いにしようと思います。また何か書きたいことが出てきたらダラダラと述べることもあるかと思いますが、その時は宜しくお願いします。


迫田 拝

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コメント: 1
  • #1

    向井より (木曜日, 19 1月 2017 15:41)

    新陰流を